1988 智、 株式会社ジャヴァ入社
1988 ゆき、株式会社ミノルタカメラ(現コニカミノルタ)入社
1991 結婚
1994 ゆき、退社
1995.1 阪神大震災 伊丹市にて被災
1995.8 智、退社 → 愛媛県たんばら園にてバラの研修生として働く
1997.11 資金を借り入れ、ハウスを建設し独立
2002.11 波動水の導入、減農薬にとりくみはじめる
2003 波動バラ完成
2005.1 「波動」での商標登録
2005.4 波動バラのサイト「ベルローズ」立ち上げる
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●私達は高校を出て、何をしたいかわからなかったので大学に入りました。大学を卒業する時になっ
ても自分が何をしたいのかわからないまま就職しました。
◆都会での消費型の生活は、楽しくてしょうがありませんでしたが、何かを産み出すエネルギーとい
うものが失われていくのも感じていました。
■兵庫県伊丹市の自宅マンションのベランダで観葉植物を育てるのを趣味としていた主人がこのまま
会社を続けていけるのだろうか、将来何をするべきか自問自答を繰り返している頃、ひとつぶの朝
顔の種がベランダの鉢に芽を出しました。毎日数十cmも伸びていくその生命力に感動した主人は
好きな植物を育てる事を職業にしたいと確信しました。
消費者でなく、生産者...何かをつくることがしたいと。農業をやってみたいと。
●休日には二人で農業に関する色々な事を調べて回りました。
土地を持たないサラリーマンが簡単に農業を始める事はできません。
そんな中、大阪で「就農促進セミナー」が開かれる事を知り、参加しました。各都道府県のブース
が並ぶ中、飛び込んだのは私の故里愛媛県のブースでした。愛媛県はバラの産地でもあり、花卉農
家だったら「バラ」がいいのではないかと進められました。花の女王だと思っているバラを生産で
きるなんて、どんなにうれしいことなのだろう!と思っていましたが、この時はまだ蓄えもなく農
業ができるなんて...と思っていました。
●そんな時、阪神・淡路大震災に遭いました。すぐそばで失われた数多くの命、そして倒壊した家々
・・・確かなものと思われていたものがこの世の中から一瞬にしてなくなっていくのを見て、本当
に確かなものってなんだろう...と悩みました。悩みながらも、 確かなもの....それは自然から宇
宙から与えられているものではないかと、漠然と感じ始めていました。
そして、それを確かめたいとも思いました。
神様が残してくださった命をどのように生かしていけばいいのかという答えが見つかったような気
がしました。
農業をすることへの意義がさらに確固たるものとなりました。
■震災の後始末が終わり、会社も落ち着いた8月、主人は退社し、家族で愛媛県へ引っ越しました。
県の営農インターン制度を利用し、2年間バラ園での研修を終え、大きな借金をし独立しました。
夫婦ふたりだけのハウスなので、働いても働いても借金返済へお金が回り、苦しい生活です。
●その頃「波動タオル」を作っていらっしゃる宇野さん御夫妻と出会いました。
それまではただ必死さから「できたものを出荷する」という感覚だったのが、生産者としての原点
「つくったものをお届けする」という考えに変わり、「波動バラ」をつくってみたいと思いました。
●最初はバラの主たる栄養分となる水(私達のバラは水耕栽培です)への研究から始まりました。
粒子を細かくするセラミックを使ってみたり、なかなか思うように進まない波動水の研究は、試行
錯誤が続きました。
でも、試行錯誤の過程で、私達は「波動」という考え方が少しづつ理解できてきました。気持ちが
伝わる「波動」の入ったバラを作るためには、私達も変わらなければと思いました。
●私達にとって、バラはかわいいには違いなかったのですが、「命」が宿ったものとして見えていま
せんでした。
バラを「商品」ではなく「命」ととらえることで、私達のバラ作りは変わってきました。自然に、
「かわいいね」とか「ありがとう」と声をかけるようになりました。バラと向き合い、生かされて
いる事に感謝しながら仕事ができるようになりました。
そして、単に美しくいいバラをお届けするだけではなく、私達のバラを手にとってくださる方が、
ひとときでも幸せになる事で、その輪が広がり、皆が安心して生活し、希望を持ち続ける事のでき
る社会になる方向づけの一部になれば...と大きな目標もできました。
●こんな私達のつくるバラが、皆様のお気持ちをつなぐお手伝いができるのであれば、とても幸せで
す。どうぞよろしくお願い致します。
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